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木の茶の間 輪-rin- ふたたび

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恭仁宮跡発掘調査現地説明会

本当に久しぶりに発掘調査の現地説明会に行って来ました。
場所は京都府になりますが、ウチからだと飛鳥エリアよりも近いのであります。




平成18年度恭仁宮跡発掘調査現地説明会 京都府教育委員会
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10:30スタート。
山城国分寺跡(大極殿跡)に集合して、レジュメをもらい、説明をききます。


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第一調査地点に移動して、説明を受けます。
我々は第一調査地点の外側で中に立つ説明員の方を見下ろす形で取り囲みます。

ここは大極殿の中心から西へおよそ80mの位置。
調査目的は大極殿院の回廊を見つけること。
そしてここからは南北に並ぶ4箇所の穴やその他に溝が見つかり、それは回廊の土塀(築地塀)の外側に平行して立てられていた柱の礎石据付穴跡と推測されるとのこと。
恭仁宮の大極殿院回廊は平城宮から移築したとの記事が『続日本紀』に見られる。
そして、平城宮跡の調査結果から複廊形式の築地回廊と考えられる。
土塀の外に柱があると推測される根拠は平城京の調査を踏まえての事‥という訳です。

そんな中説明員の方から印象的な言葉が‥
「この恭仁時代の瓦が‥」
クニジダイ。初めて耳にします。
一般的には奈良時代なんでしょうが、恭仁宮、恭仁京を真摯に研究された方にとって、都があった3年は
「恭仁時代」としか表現しようがないのでしょう。きっと。
で、これ↑が「恭仁時代」の瓦です。


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「こちらが「礎石据付穴跡」ですね。これで大まかではありますが説明を終えさせていただきます。」
この後の説明員の言葉にワレワレ一同はどよめいた。
「じゃ足元に注意して、降りて中に入っていただいて、結構です。
白線を消したり、瓦などに触らないようにして下さい。あ、斜面に気をつけてね~」
え、中に入っちゃっていいの?
うひゃあうれしやうれしや‥という顔でわらわらと近づきます。
以前、飛鳥エリアの現地説明会とは様子が違います。
なんてったってこじんまりしていてゆっくりじっくり見せてもらえます。
写真上は離れた地点で説明を聞いているときの一枚。
写真下は接近しての一枚。


恭仁宮跡発掘調査現地説明会_f0033836_20212161.jpg

そして、山城国分寺跡や第一調査地点に隣接する、恭仁小学校。
木造でなんとも懐かしい小学校です。

寒いので早々に奈良に戻りましたが、楽しいひとときでした。
もっと暖かかったら、たぶん小学校の構内に忍び込んで、「かけっこ~」などと
童心に返って遊んでいたことでしょう。

それにしても規模は小さいものの、なんとも素敵な現地説明会でした。
行ってよかった‥。


恭仁京☆
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740)日聖武天皇によって、平城京から遷都された。
宮殿は造られたものの、都としては完成しないまま743年の末にはこの京の造営は中止されて聖武天皇は紫香楽宮に移り、744年に難波京に遷都、さらに745年、都は平城京に戻された。 
      
恭仁宮☆
大極殿の北側に東西に二つ並ぶ塀でかこまれたほぼ同じ大きさの区画が存在する。
これは内裏と考えらている。このような在り方は他の都では見られないこの宮だけのもの。
それぞれ「内裏西地区」「内裏東地区」 と呼んでいる。
首都が移転して後、天平18年に山城国分寺へと造り替えられた。

さまよえる聖武天皇。
ウチのご近所で安らかに眠っておられます。
by kinochanoma | 2006-11-25 20:38 | 週末
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